大判例

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最高裁判所大法廷 昭和22年(れ)219号 判決 1948年6月14日

主文

本件上告を棄却する。

理由

被告人松原重利辯護人上原隼三上告趣意第一點について。

(イ)裁判が、公開の法廷において、公正な裁判所によってなさるべきことは、所論のごとく憲法の明定するところである。ただ公の秩序又は善良の風俗を害するおそれがある場合には、裁判官の全員一致で、對審を公開しないで行うことができることは、憲法第八二條第二項の定めているところである。そして、本件記録を調査すると、(イ)所論のように、「裁判長は合議の上、爾後の審理は、風俗を害する虞あるにより、公開を禁止する旨を告げ、非公開とした」との記載が、昭和二十二年九月三十日の公判調書に明記されている。かくのごとく、裁判所が非公開で審理をした場合には、「裁判官の全員一致で」公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決定した旨を明確な表現で調書に記載しておくことが大切である。そこで、本件調書に「合議の上」風俗を害する虞あるにより公開を禁止した旨を告げ非公開としたとの記載は、厳格にいえば、稍不正確の嫌があるが、しかし、なお、裁判所法にいわゆる評議を經て、裁判官全員の意見が合致して非公開を決定したものと認め得るのである。強いて所論のように、評議の結果多數決をもって公開を禁止したものと解すべき根據は、全記録の何處にも見當らない。されば、この點の論旨は理由なきものである。

(ロ)裁判の對審判決を公開すべきことは舊憲法も保障するところであって、舊刑事訴訟法第二〇八條は「公ニ辯論ヲ爲シタルコト」を公判始末書に記載しなければならぬことを規定して、裁判は特に公開が禁止されない限り必ず公開すべきものとしている。このことは、わが国においても既に長年間違なく実行されてきて、裁判の公開が常識となり、公開の禁止はごく稀な例外となっている。從って、公判の調書に公開禁止の記載がなければ公判の公開されたことはおのずから調書上明かであるので、現行刑事訴訟法第六〇條は舊規定を改正して、單に「公開ヲ禁シタルトキハ其ノ旨及理由」を公判調書に記載すべきことゝした。すなわち、裁判を公開した場合は當然のことゝして公開したことを調書に記載する必要のないものとし、たゞ公開を禁じた場合だけを公判調書に記載すべきことに改正したのである。裁判公開の保障は、裁判の公開されたことが公判調書上おのずから判明すれば十分であって、公開したことを特に調書に明記する必要はない。もし、不法に公開を禁じた場合には上告審において刑事訴訟法第四三五條によりその事実を取調べることができるからである。かえって、公開したことを調書の必要的記載事項とすると、裁判は実際には公開されたのに調書がその記載を缺いた場合に、刑事訴訟法第六四條により公判調書以外の證明が許されないため、上告審においてはその手續による裁判を無用に破毀しなければならない不當の結果を生じる。以上の解釋は新憲法施行の後においても同じことである。新憲法は基本的人權保障の一つとして、公開裁判の原則を規定した。裁判の對審及び判決を公開法廷で行うことは新憲法上重要な人權の保障であるこというまでもないが、審判を公開したことを特に公判調書に明記しなければならないことは、憲法の條規にも規定されていない。されば、新憲法の下においても、裁判の公開は公判調書上おのずからそのことが判明すれば十分であって、特に公開したことを調書に明記しなくとも憲法の違反とはならない。從って、從前の解釋は「日本国憲法の施行に伴う刑事訴訟法の應急的措置に関する法律」第二條にも違反するところはない。本件において、原裁判所は、その審理が風俗を害する虞があるとして、公判の公開を禁じたことは、原審の公判調書によって明かなので、本件での公開の禁止は、事件の審理に限定された趣旨であると解釋しなければならない。從って、結審後の判決宣告期日の公判においては公開の禁止は解かれていたこと明かである。そして、判決宣告期日の公判調書には公開を禁じたことの記載がないのであるから、前述したとおり、原判決の宣告は公開法廷で行われたものと公判調書上認めることができる。されば、原判決には所論のような憲法及び刑事訴訟法の違反はなく、論旨は理由がない。(その他の判決理由は省略する。)

少數意見

上告趣意第一點(ロ)の部分の理由に關する裁判官真野毅、同庄野理一の少數意見は次のとおりである。

新憲法の下においては、訴訟事件の審理及び判決が公開法廷で行われたことは、公判調書に記載されることを要する。それはいかなる理由によるか。(一)憲法第三七條第一項においては、「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける權利を有する」と規定して、「公開裁判を受ける權利」を基本的人權として実體法的に国民に保障している。(二)さらにまた憲法第八二條第一項においては、「裁判の對審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」と規定して、訴訟事件の審理及び判決は、公開法廷において行わるべきことを手續法的にも国民に保障しているのである。かくのごとく裁判の公開は、実體法的にも、手續法的にも、憲法上の保障が二重になされているのであって、いかに憲法が、人類の過去の歴史的經驗を通じて、裁判の公正を擔保するために、裁判の公開を重要視しているかが窺い知られる。(三)そうして、刑訴第六〇條においては、公判期日における訴訟手續についてはその明確を期するため公判調書を作成すべきものとし、特に一定の重要な事項についてはこれを必要的記載事項として記載すべきことを定めている。さらに、刑訴第六四條によれば、公判期日における訴訟手續は、公判調書のみによって證明することができるとされている。すなわち、訴訟手續の一定の重要事項は、公判調書に記載を要するものとし、若しその記載を缺くときはその事項の存在は當然否定され得る譯である。これによって一定の重要事項はその履踐が公判調書によって保障されることとなっている。言いかえれば、公判調書制度の意義は重要な訴訟手續の履踐を保障するにある。

さて、裁判の公開は前述のごとく憲法の重要視するところであり、從ってまた訴訟手續における憲法的重要事項であるから、公判調書においてその履踐が厳に保障されることが憲法上要請されるのである。そこで、從來は舊憲法第五九條にも、裁判公開の規定はあり、舊刑訴第二〇八條第一號によれば「公ニ辯論ヲ爲シタルコト又ハ公開ヲ禁ジタルコト及ビ其事由」を公判始末書に記載すべき旨を定めていたが、現行刑訴第六〇條第四號においては「公開ヲ禁ジタルトキハ其ノ旨及理由」を公判調書に記載すべきことに改正された立法の經過は、多數意見の述べているとおりである。從って、從來は公判調書に公開禁止の記載がない限り、裁判の公開が行われたものと解釋せられ、又裁判の公開は公判調書の必要的記載事項ではないと解釋せられていたことも多數意見の述べるとおりである。しかしながら、舊憲法時代にはおよそ違憲審査などということは深く考えられたこともなく、総て法律が萬能であり、至上であり、裁判官は法律にのみ拘束されたのであるから、前記のような立法並に解釋が、一般に何等の疑義もなく行われたことは、敢て怪しむに足らない。

しかるに、新憲法は施行せられ、刑訴應急措置法第二條においては「刑事訴訟法は日本国憲法制定の趣旨に適合するようにこれを解釈しなければならない」と規定し、また同第二一條においては「この法律の規定の趣旨に反する他の法令の規定はこれを適用しない」と規定して、刑事訴訟法は全面的に憲法的見地から新な角度によって批判され解釋さるべきことを要求している。これはまことに當然すぎるほど當然のことである。そこで、刑訴第六〇條について再檢討をすれば、同條列擧の各事項は、單に刑事訴訟法の要請に基く重要な事項として公判調書に記載し、その履踐を公判調書上保障することを趣旨としている。しからば、裁判の公開は、前述のごとく憲法上極めて重要視されている事柄であるから、憲法の要請に基く重要な事項として公判調書に記載し、その履踐を公判調書上保障することを必要とする。これはすなわち、憲法的見地から同條を批判し解釋することによって當然生ずる結論である。しかのみならず、同條第一二號においては「被告人若ハ辯護人最終ニ陳述シタルコト又ハ被告人若ハ辯護人ニ最終ニ陳述スル機會ヲ與ヘタルコト」を、公判調書の必要的記載事項としているが、これは同法第三四九條に「證據調終リタル後、檢事ハ、事実及法律ノ適用ニ付違憲ヲ陳述スベシ。被告人及辯護人ハ、意見ヲ陳述スルコトヲ得。被告人又ハ辯護人ニハ、最終ニ陳述スル機會ヲ與フベシ」とある規定と照應し、この規定の定める被告人側の最終陳述權を刑事訴訟法の要請に基く重要な事項として公判調書に記載し、その履踐を公判調書上保障することを趣旨としたものである。從って、若し公判調書にこの點に關する記載を缺くときは、假令実際上においてはこの手續の履踐があったとしても、この手續の履踐について公判調書以外の證明を一切許すことなく、この手續の履踐が無かったものとして訴訟手續は違法とされるのである。これが公判調書の保障力であって、被告人はこの手續の履踐のなかったこと一々具體的に立證する必要はなく、公判調書にこの點の記載を缺くことを指摘すれば足りるのである。訴訟法において認められた被告人の最終陳述權さえが、かかる保護を與えられているのに對比すれば、上述のごとく憲法において認められ充分に保障されている被告人の公開裁判を受ける權利は、憲法の要請に基く重要な事項として公判調書に記載し、一層その履踐が公判調書上においても保障さるべきものと言わねばならぬ。從って若し、公判調書に裁判の公開に關する記載を缺くときは、假令実際上においてはこの手續の履踐があったとしても、この手續の履踐について公判調書以外の證明を一切許すことなく、裁判の公開が無かったものとして訴訟手續は違法とされるのである。すなわち、被告人は、裁判の公開の無かったことを一々具體的に立證する必要はなく、公判調書に裁判公開の記載を缺くことを指摘すれば、訴訟手續を違法ならしめることができる。かく解してこそ憲法における裁判公開の基本的人權は、訴訟法においても公判調書の保障力による保護を受け得るのである。されば、多數意見のごとく、裁判の公開は公判調書に全然記載することを要せず、公開禁止の記載なき限り公開せられたものと解する説は、現在憲法及び訴訟法の解釋として是認することができない。若しかかる解釋を是認すれば、憲法における裁判公開の基本的人權は、公判調書の保障力による保護を毫も受けることを得ない。けだし、裁判公開が実際に行われず公判調書に公開について何等の記載がない場合においても、多數意見によれば裁判は公開されたものと推定され、被告人は裁判の公開がなかったことを一々具體的に立證する必要があるからである。かくのごとくであれば、裁判公開の憲法上の保障は空文化せられるのみならず、上述した公判調書制度の趣旨もまた全く没却せられることとなるに至るであろう。

次に、前記解釋と關連して公判及び公判廷の意義について少しく述べる必要がある。公判は、一般に豫審に對するものとして觀念されている。豫審に對する言葉としては、本來は本審(ハウプト・フェアハンドルング)という言葉が最も適切妥當であるが、近代刑事訴訟法の本審においては、公開主義を中核とし基本原則とするものであるから、端的に公判(公開審判の略語)という名稱が用いられたのである。舊刑訴第二〇八條第一號に「公ニ辯論ヲ爲シタルコト」とあるのは、公開主義と辯論主義が行われたことを意味するのであって、その「公ニ」とは公開主義の下にという意義を有するのである。しかし刑事訴訟法が現実に用いている公判という言葉には廣狹の二つの意義があって、狹義において公判とは、公開主義と口頭辯論主義に基く審理、辯論及び判決宣言の手續のみを指稱し、廣義において公判とは、この外これを準備する手續、公判期日外における手續、例えば檢證、保釋決定、勾留更新決定等をも含む手續を指稱する。そして、公判期日、公判手續、公判調書又は公判廷という場合には何れも狹義の公判すなわち公開主義と口頭辯論主義によって行わるべき期日、手續、調書又は法廷を意味するのである。しかし、それは必ずしも常に公開主義が現実に行われることを必要とするものではない。公判廷は公開主義によって行わるべき法廷を意味するものであるから、公判廷が開かれた旨の記載があれば、そして他に特別の記載がない限り、公開主義による法廷が現実に開かれたことを十分窺い知ることができる。

そこで本件について見るに、判決は公開法廷で行うべきものであること及び非公開の判決言渡は常に憲法違反となることは、所論の指摘するとおりである。しかし、本件において判決の言渡された昭和二十二年十月七日の公判調書によれば、「檢事本位田昇立會公判を開廷した。被告人は公判廷において身體の拘束を受けない」との記載があり、そして他に特別の記載がないのであるから、本件判決が現実に公開された法廷において言渡されたことは、十分認めることができる。本件のごとく非公開審理と判決言渡とが別個の公判期日において行われた場合においては、必ずしも常に所論のように對審期日の公開禁止を判決言渡前に特に解除することを必要とするものと考えることはできない。よって、この點の論旨も理由なきものである。

よって、刑訴第四四六條に從い主文のとおり判決する。

この判決は、真野裁判官、庄野裁判官の少數意見の部分を除き、裁判官全員の一致した意見である。

(裁判長裁判官 三淵忠彦 裁判官 塚崎直義 裁判官 長谷川太一郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上登 裁判官 栗山茂 裁判官 真野毅 裁判官 庄野理一 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 齋藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎)

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